渡海文部科学相の発言と「ゆとり教育」と「エンタの神様」
これがあれば何もいらない!
渡海紀三朗文部科学相は15日、閣議後の会見で、現行学習指導要領で学んだ、いわゆる「ゆとり世代」が「2ちゃんねる」などで低学力の代名詞として扱われていることに関して「そう見る必要は全然ない。一つの世代を一元的にとらえることはなかなかできない」と反論した。
「ゆとり教育」と呼ばれる現行学習指導要領は小中学校で平成14年度、高校で15年度から始まった。新成人は高校3年間すべてを現指導要領で学んだ初めての世代となる。
渡海文科相は「ゆとり世代」について、「『最近の若い子は』といわれるが、世代が変わると文化、価値観、興味も変わる。一概に今の若い人の行動をわれわれがどうこう言うのは適当ではない」と述べ、特別視することではないと強調した。
さらに、新成人に対して、「これからは若い人が活躍する世代になる。彼らの未来に期待したい。現在の思いを忘れないでほしい」とエールを送った。
まあ文部科学相という立場だから、現指導要領を正面から批判はできないのかもしれないが、渡海大臣の言っていることには間違いが含まれている。
そもそも、
「これからは若い人が活躍する世代になる」
という日本語は、団塊世代の渡海大臣の発言にしては、典型的なゆとり世代の日本語のようなところがなんともいえない。「世代」はおそらく「時代」の間違いである。
ゆとり教育の中で、象徴的に挙げられるそれ以前の教育と違う点は、円周率が3.14から3に変わったことである。円周率は小数点以下が永遠に続く数だから、3.14でも3でも、計算に使う場合にはどちらでも正確な答えは求められない。だが、そんなことは問題ではない。問題は、3.14という数字を計算するのと、3という数字を計算するときに使う、思考力の違いである。小数点以下が2桁あるのとただの3では、計算するときの「面倒くささ」つまり「考える労力」がまるで違う。階段を使う人とエレベーターを使う人とでは足の筋力がちがうように、3.14を使う人と3を使う人との間には、必ず考える力のギャップが生じる。
実際にその差が現れてきている。
みなさんは「エンタの神様」というテレビ番組をご存知だろうか。毎回、若手の芸人たちがネタを披露する演芸番組で、中高生たちから人気がある。そこに出演している芸人のほとんどが、短いネタをして、その間に「ブリッジ」と呼ばれるつなぎのギャグを入れるパターンを繰り返しひとつのネタにさせる手法をとっている。ブリッジというのは、例えば「間違いない」や「ヒロシです」や「あっちゃんかっこいい」や「チクショー」や「そんなの関係ねー」といったギャグのことである。そのギャグの前に短いネタをする。そういったパターンのネタをする芸人が「エンタの神様」の出演者には異常に多い。そして、それが若者の間で人気になっている。
これは、「エンタの神様」以前に、人気の高かった芸人のネタとは明らかに本質が異なっている。「エンタの神様」以前のネタは「落語」や「コント」や「漫才」で、ひとつのネタの時間も長かった。その中には、最初の方に出てきた「フリ」が「オチ」につながっていたりして、見ている者の知的好奇心を満足させた。そういったネタに慣れ親しんだ人には「エンタの神様」の芸人のネタには「物足りなさ」を感じるのではないだろうか。逆に、「エンタの神様」を見ている若者には、昔のネタは「面倒くさい」と映るのではないだろうか。
私にはこの差が、3と3.14の差と重なって見える。
「エンタの神様」を好んで見ているのはゆとり世代であり、円周率を3として計算してきた世代である。3で計算することに象徴される、「それほど考えなくてもよい教育」を受けてきた世代には、お笑い芸人のネタに対しても、考えて笑うということが面倒くさくなってしまうのではないだろうか。だとしたら、それは日本の文化の低迷につながる。
渡海大臣は「世代が変わると文化、価値観、興味も変わる」と述べているが、変わる中身が、下へ、水準の低いものへ変わっていくのでは、そのうち日本はつぶれてしまう。
だから私は「ゆとり教育」そして渡海大臣の発言が間違っていると思うのである。
渡海紀三朗文部科学相は15日、閣議後の会見で、現行学習指導要領で学んだ、いわゆる「ゆとり世代」が「2ちゃんねる」などで低学力の代名詞として扱われていることに関して「そう見る必要は全然ない。一つの世代を一元的にとらえることはなかなかできない」と反論した。
「ゆとり教育」と呼ばれる現行学習指導要領は小中学校で平成14年度、高校で15年度から始まった。新成人は高校3年間すべてを現指導要領で学んだ初めての世代となる。
渡海文科相は「ゆとり世代」について、「『最近の若い子は』といわれるが、世代が変わると文化、価値観、興味も変わる。一概に今の若い人の行動をわれわれがどうこう言うのは適当ではない」と述べ、特別視することではないと強調した。
さらに、新成人に対して、「これからは若い人が活躍する世代になる。彼らの未来に期待したい。現在の思いを忘れないでほしい」とエールを送った。
まあ文部科学相という立場だから、現指導要領を正面から批判はできないのかもしれないが、渡海大臣の言っていることには間違いが含まれている。
そもそも、
「これからは若い人が活躍する世代になる」
という日本語は、団塊世代の渡海大臣の発言にしては、典型的なゆとり世代の日本語のようなところがなんともいえない。「世代」はおそらく「時代」の間違いである。
ゆとり教育の中で、象徴的に挙げられるそれ以前の教育と違う点は、円周率が3.14から3に変わったことである。円周率は小数点以下が永遠に続く数だから、3.14でも3でも、計算に使う場合にはどちらでも正確な答えは求められない。だが、そんなことは問題ではない。問題は、3.14という数字を計算するのと、3という数字を計算するときに使う、思考力の違いである。小数点以下が2桁あるのとただの3では、計算するときの「面倒くささ」つまり「考える労力」がまるで違う。階段を使う人とエレベーターを使う人とでは足の筋力がちがうように、3.14を使う人と3を使う人との間には、必ず考える力のギャップが生じる。
実際にその差が現れてきている。
みなさんは「エンタの神様」というテレビ番組をご存知だろうか。毎回、若手の芸人たちがネタを披露する演芸番組で、中高生たちから人気がある。そこに出演している芸人のほとんどが、短いネタをして、その間に「ブリッジ」と呼ばれるつなぎのギャグを入れるパターンを繰り返しひとつのネタにさせる手法をとっている。ブリッジというのは、例えば「間違いない」や「ヒロシです」や「あっちゃんかっこいい」や「チクショー」や「そんなの関係ねー」といったギャグのことである。そのギャグの前に短いネタをする。そういったパターンのネタをする芸人が「エンタの神様」の出演者には異常に多い。そして、それが若者の間で人気になっている。
これは、「エンタの神様」以前に、人気の高かった芸人のネタとは明らかに本質が異なっている。「エンタの神様」以前のネタは「落語」や「コント」や「漫才」で、ひとつのネタの時間も長かった。その中には、最初の方に出てきた「フリ」が「オチ」につながっていたりして、見ている者の知的好奇心を満足させた。そういったネタに慣れ親しんだ人には「エンタの神様」の芸人のネタには「物足りなさ」を感じるのではないだろうか。逆に、「エンタの神様」を見ている若者には、昔のネタは「面倒くさい」と映るのではないだろうか。
私にはこの差が、3と3.14の差と重なって見える。
「エンタの神様」を好んで見ているのはゆとり世代であり、円周率を3として計算してきた世代である。3で計算することに象徴される、「それほど考えなくてもよい教育」を受けてきた世代には、お笑い芸人のネタに対しても、考えて笑うということが面倒くさくなってしまうのではないだろうか。だとしたら、それは日本の文化の低迷につながる。
渡海大臣は「世代が変わると文化、価値観、興味も変わる」と述べているが、変わる中身が、下へ、水準の低いものへ変わっていくのでは、そのうち日本はつぶれてしまう。
だから私は「ゆとり教育」そして渡海大臣の発言が間違っていると思うのである。
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ゆとり教育
ゆとり世代に限らず、
GHQに導入させられた六三三制以来、意図的かつ
段階的に国民の学力が低下させられてきたように
感じます。
一部のエリートに国民の殆どがぶらさがるアメリカ式の
二極構造に日本も
酷似してきました。
黒幕が誰か知りませんが、彼らにとって
日本は理想の国になりつつあり、
残念な気持ちでいっぱいです。
GHQに導入させられた六三三制以来、意図的かつ
段階的に国民の学力が低下させられてきたように
感じます。
一部のエリートに国民の殆どがぶらさがるアメリカ式の
二極構造に日本も
酷似してきました。
黒幕が誰か知りませんが、彼らにとって
日本は理想の国になりつつあり、
残念な気持ちでいっぱいです。