『風に立つライオン』について
『風に立つライオン』 さだまさし
突然の手紙には驚いたけど嬉しかった
何より君が僕を怨んでいなかったということが
これから此処で過ごす僕の毎日の大切な
よりどころになります ありがとう ありがとう
ナイロビで迎える三度目の四月が来て今更
千鳥ヶ渕で昔君と見た夜桜が恋しくて
故郷ではなく東京の桜が恋しいということが
自分でもおかしい位です おかしい位です
三年の間あちらこちらを廻り
その感動を君と分けたいと思ったことが沢山ありました
ビクトリア湖の朝焼け 100万羽のフラミンゴが
一斉に翔び発つ時 暗くなる空や
キリマンジャロの白い雪 草原の象のシルエット
何より僕の患者たちの 瞳の美しさ
この偉大な自然の中で病と向かい合えば
神様について ヒトについて 考えるものですね
やはり僕たちの国は残念だけれど何か
大切な処で道を間違えたようですね
去年のクリスマスは国境近くの村で過ごしました
こんな処にもサンタクロースはやって来ます 去年は僕でした
闇の中ではじける彼等の祈りと激しいリズム
南十字星 満天の星 そして天の川
診療所に集まる人々は病気だけれど
少なくとも心は僕より健康なのですよ
僕はやはり来てよかったと思っています
辛くないと言えば嘘になるけど しあわせです
あなたや日本を捨てた訳ではなく
僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです
空を切り裂いて落下する滝のように
僕はよどみない生命を生きたい
キリマンジャロの白い雪 それを支える紺碧の空
僕は風に向かって立つライオンでありたい
くれぐれも皆さんによろしく伝えて下さい
最后になりましたが あなたの幸福を
心から遠くから いつも祈っています
おめでとう さよなら
この歌はさだまさしさんの『風に立つライオン』という歌です。この歌は一見、「エコ」に熱狂している人に受ける、くじらを捕獲することに反対しているオーストラリア人に受ける、そんな曲に思えます。
雄大な自然の素晴らしさを歌っているのですが、過剰に自然を賛美しています。
でも本質はそこではないと思います。
この歌の核心は、
「僕たちの国は残念だけれど何か
大切な処で道を間違えたようですね」
「日本を捨てた訳ではなく
僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです」
この2ヶ所にあると思います。
ようは、アフリカの大きな自然に立ってみて、客観的に日本を見たら、間違ってるけど捨てたくないと思ったわけです。
アフリカの人たちのようなあるがままの営み。人間に生まれつき備わっているもの。自然に生まれる優しさ。これを「間違えた」のは日教組です。ごり押しで「平等」を洗脳しようとしたら、必ず破綻が出る。
それを体現したのが、今年起きた事件で言えば、秋葉原無差別殺人の加藤智大容疑者です。どんなにネットに書き込んだって、返信のある人とない人がいる。100万羽の1匹のフラミンゴもいれば、風に立つライオンもいるんです。それが自然で当然です。それを日教組は、「フラミンゴにも風に立つ権利がある」といって、自然の摂理を壊してしまった。これは大きな間違いです。人間は全員、背も違えば顔も違う。だから平等なんてないんです。実際にそれを目指した共産国家は全部最悪の結果しか残していません。
でもね、1匹のフラミンゴにも自由がある。
たとえ、ライオンのように風に立てなくても、ライオンにはできない、空を飛ぶことができる。
「今を生きることに思い上がりたくない」っていうのは、今フラミンゴだから、今ライオンだから、っていうことに「満足」したり「あきらめ」たり、したくないってことだと思います。
フラミンゴだってライオンだって、どんな夢を持ってもいいし、怠ければライオンだって寝てるところを象に踏み潰される。フラミンゴだって、努力すればフラミンゴなりの夢をかなえられます。
日本人は日本人である時点で、日本人としてどんな夢を持ってもいいし、努力次第でかなえられます。しかし、気持ちの持ち方が加藤容疑者みたいな人間には夢をかなえる権利はないんです。だって、壁に突き当たったら、それを乗り越える努力をしないで、とりあえず周りに迷惑をかけるわけですから。そんな人間と、一生懸命壁を乗り越えようとしている人を平等に扱うのはおかしいです。間違っています。
2ちゃんねらーやマスコミみたいな人は、「派遣社員」といって、なんでもいっしょくたにしようとしますが、加藤容疑者と必死で働き口を探している日産の社員はまったく違う。そんなことは子どもだってわかることです。それが、日教組の「平等」という、ありもしない「正義」かのような洗脳教育によって、わからなくなってしまったおとながたくさんいます。
それを、さだまさしさんは「僕たちの国は残念だけれど何か、大切な処で道を間違えたようですね」と言っているのだと思います。そしてそれを「仕方ない」とあきらめる、思考停止な人に「日本を捨てた訳ではなく、僕は「現在」を生きることに思い上がりたくないのです」とメッセージしているのだと思います。
まあ、音楽とか詩とかは、人によって様々な解釈の仕方があって当然ですが、私はそう感じました。